人吉海軍航空基地について
山の中の海軍航空基地
人吉海軍航空基地は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)11月に、海軍施設部により建設が開始されました。全長1,500m 幅50mのコンクリート製滑走路を有する飛行場と、本部庁舎や実習棟、兵舎が建ち並ぶ庁舎居住地区からなる、本格的な航空基地でした。
1944年(昭和19年)2月、人吉海軍航空隊が発足します。当初整備兵を養成していましたが、5月からは海軍飛行予科練習生が入隊します。飛行機乗りを夢見た予科練生は、海も湖もない人吉球磨で飛行機整備術を学びました。その数は6,000名を超えます。
その後、2度にわたる空襲と戦況の悪化により、教育施設から特攻訓練基地、そして本土防衛基地へとその役割を変えていきます。上空には、「赤とんぼ」の愛称で知られる九三式中間練習機が特攻訓練に明け暮れ、地上では本土決戦に備えた膨大な数の地下施設の建設が進められました。
人吉海軍航空基地の活動期間は、わずか1年9カ月と短いものでした。
庁舎居住地区
松根油乾溜工場
予科練習生は、錦町・相良村に広がる庁舎居住地区で生活していました。現在も、衛兵が常駐していた隊門や、予科練生による訓練、行事の様子を記録した写真が残っています。
太平洋戦争開戦後、アメリカからの石油供給に依存していた日本は、航空燃料不足が顕著となりました。そこで国をあげて実施されたのが、松の切り株を蒸し焼きにして得られる「松根油」の製造です。
人吉海軍航空基地では、軍直営の乾溜工場が建設され、予科練生が製造に従事していました。現在もその工場跡を見ることができます。
地下軍事施設
飛行場地区と「赤とんぼ」
ミュージアム周辺に広がる地下軍事施設は、作戦室や無線室、兵舎、弾薬庫、工場など21種類が計画されていました。なかには計画段階で終戦を迎えたものもありますが、多くの施設は現存しています。
施設の配置や構造から、当時の戦況や基地の役割を知ることができます。
人吉海軍航空基地に作られた飛行場は、全長1,500m、幅50mの熊本県内唯一のコンクリート製滑走路を備えていました。ひみつ基地ミュージアムは、滑走路跡の上に位置しています。壁面展示では、当時の滑走路と現在の風景を重ねて見ることができます。また、ミュージアム周辺には飛行機を空襲から守る無蓋掩体壕や陸戦教練を行った塹壕などが残っています。
人吉海軍航空隊の歴史
人吉海軍航空隊が活動した期間はわずか、1年9か月間、大変短いものです。
いまから72年前、昭和18年11月に教育航空隊、特攻基地の中継基地として建設が始まり、翌年2月には、人吉海軍航空隊が発足します。
1943年
11月
1944年
2月1日
1944年
8月15日
1945年
3月1日
1945年
3月8日
1945年
4月8日
1945年
5月14日
1945年
6月1日
1945年
7月10日
1945年
8月15日
人吉海軍航空隊基地 建設開始
人吉海軍航空隊が活動した期間はわずか、1年9か月間、大変短いものです。
いまから72年前、昭和18年11月に教育航空隊、特攻基地の中継基地として建設が始まり、翌年2月には、人吉海軍航空隊が発足します。
第18連合航空隊人吉海軍航空隊の誕生
1944年(昭和19年)2月1日、人吉海軍航空隊が設置され、104期普通科整備術練習生が入隊。
この日、出水飛行場にも人吉海軍航空隊出水分艦隊も設置されている。
人吉海軍航空隊出水分艦隊の独立開隊
人吉海軍航空隊の開隊から半年後、出水分艦隊は独立し第18連合航空隊第二出水海軍航空隊に所属することになる。
第18連合航空隊の解隊
1945年(昭和20年)3月1日のこの日、第18連合航空隊は解隊され佐世保鎮守府隷下第22連合航空隊へ移籍。
アメリカ海軍航空母艦艦載機による初空襲
1945年3月18日、アメリカ海軍機が人吉海軍航空基地に飛来し、機銃掃射や爆弾による空爆を実施。
高射砲で応戦するも、この攻撃により航空隊所属の9人が戦死、1人が重傷を負う。また、同基地から500mほど離れた場所に住んでいた4人の民間人も逃げ遅れ死亡している。
同日、アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「カボット」の艦載機が宮崎上空から大牟田までを飛行し、各地の基地を撮影した記録が残っている。
隧道地区の建設とB-29の飛来
1945年3月に爆撃にも耐えうる地下軍事施設を建設するため、第521設営隊が編成され地下に多くの工場や倉庫の建設が進められていた。
主な施設として、兵舎・弾薬庫・魚雷庫・作戦室・酸素発生工場など。
また、同時期に硫黄島の戦いに負けアメリカ軍に占領されると、大型爆撃機B-29「スーパーフォートレス」が飛来する回数が増え、
1945年4月8日には出水飛行場を目標とした空襲も行われた。
人吉海軍航空基地最後の空襲
アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「サン・ジャシント」の艦載機16機が人吉海軍航空基地に飛来。爆弾投下や機銃掃射を行い多数の建物に被害があったがさいわい死者は出さず、応戦した機銃員1人が負傷。その他家屋や家畜に被害が出た。
この頃、「赤とんぼ」の愛称で親しまれた九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになった。
本土決戦に向けて
この日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上線部隊として変更される。
人吉海軍航空隊の解隊
人吉海軍航空隊は解隊され、人吉航空基地施設と改称。九州航空隊人吉派遣隊が駐屯する人吉海軍警備隊となる。
基地は「中型練習機・軽爆撃機ヲ以テ作戦スル施設」と指定され、地下施設や工場を利用した兵站基地・作戦基地として位置付けられることになる。
第二次世界大戦の終戦
1945年(昭和20年)8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔書」の玉音放送が全国民に流れ、第二次世界大戦の終戦が決定する。
終戦時に基地にあった機体は九三式中間練習機96機や雷電1機、零式艦上戦闘機2機、九六式艦上戦闘機19機など多くの機体が残っていた。
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