About Museum
ミュージアムについて
2018年8月「山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム」は、太平洋戦争中に海軍が使用していた「人吉海軍航空基地」の跡地に開館しました。戦後70年以上が経過し、世紀も跨いだ今、なぜ資料館を新設したのか。
そこには地元の方々と錦町との思いを繋いだストーリーがありました。
1945年8月15日、玉音放送をもって終戦を知らされた日本はそこから戦後の復興の一途を辿ります。例に漏れず、この地域も多くの方が日常を取り戻すために懸命に生きました。想像を絶する食糧難を耐え忍び、迎えた高度経済成長の中で、この地域に残る多くの戦争遺跡の存在は現代の生活の中に身を潜めました。
2015年、戦後70年が経ち戦時中の記憶が薄れ行く中、『人吉海軍航空隊を顕彰する有志の会』により発見された資料をもとに進められた現地調査で、「ただの防空壕」だと思われていた地下壕が「海軍が建設した大規模な施設跡」であることが白日の元となりました。そしてその翌年、この基地跡を「平和を考える機会にしてほしい」という思いと共に、私費を投じた資料及び調査結果を全て錦町役場へ提供してくださいました。
これを受けた錦町はその思いをそのまま引き継ぎ、2018年、当ミュージアムを開館する運びとなりました。
このページは、来館時の学びをさらに深めるために「人吉海軍航空基地」の歴史を掲載しています。当地だけの点の歴史ではなく、「大日本帝国」や「世界大戦」という大きな流れの中で九州の一地方に現れた出来事として、「多角的に歴史をみる」きっかけとなることを願います。そして、様々な視点から「平和」とは何か、「戦争」とは何かを考え、「歴史からの学び」を未来に生かすことこそ、この資料館設立に携わった全ての者が願ってやまないことです。
History
人吉海軍航空基地の
歴史
山の中につくられた
“海軍航空基地”
人吉海軍航空基地は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)11月に、海軍施設部により建設が開始されました。全長1,500m 幅50mのコンクリート製滑走路を有する飛行場と、本部庁舎や実習棟、兵舎が建ち並ぶ庁舎居住地区からなる、本格的な航空基地でした。
1944年(昭和19年)2月、人吉海軍航空隊が発足します。当初整備兵を養成していましたが、5月からは海軍飛行予科練習生が入隊します。飛行機乗りを夢見た予科練生は、海も湖もない人吉球磨で飛行機整備術を学びました。その数は6,000名を超えます。
その後、2度にわたる空襲と戦況の悪化により、教育施設から特攻訓練基地、そして本土防衛基地へとその役割を変えていきます。上空には、「赤とんぼ」の愛称で知られる九三式中間練習機が特攻訓練に明け暮れ、地上では本土決戦に備えた膨大な数の地下施設の建設が進められました。
人吉海軍航空基地の活動期間は、わずか1年9ヶ月と短いものでした。
人吉海軍航空隊の歴史
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1943.11
昭和18年11月
人吉海軍航空隊基地 建設開始
人吉海軍航空隊が活動した期間はわずか、1年9ヶ月間。
昭和18年11月に教育航空隊、特攻基地の中継基地として建設が始まり、翌年2月には、人吉海軍航空隊が発足。 -
1944.2.1
昭和19年2月1日
第18連合航空隊人吉海軍航空隊の誕生
1944年(昭和19年)2月1日、人吉海軍航空隊が設置され、104期普通科整備術練習生が入隊。
この日、鹿児島の出水飛行場にも人吉海軍航空隊出水分遣隊が設置されている。 -
1944.8.15
昭和19年8月15日
人吉海軍航空隊出水分遣隊の独立開隊
人吉海軍航空隊の開隊から半年後、出水分遣隊は独立し第18連合航空隊第二出水海軍航空隊に所属することになる。
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1945.3.1
昭和20年3月1日
第18連合航空隊の解隊
1945年(昭和20年)3月1日のこの日、第18連合航空隊は解隊され佐世保鎮守府隷下第22連合航空隊へ移籍。
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1945.3.18
昭和20年3月18日
アメリカ海軍航空母艦艦載機による初空襲
1945年3月18日、アメリカ海軍機が人吉海軍航空基地に飛来し、機銃掃射や爆弾による空爆を実施。
高射砲で応戦するも、この攻撃により航空隊所属の9人が戦死、1人が重傷を負う。また、同基地の隣の集落に住んでいた4人の民間人も逃げ遅れ死亡している。
同日、アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「カボット」の艦載機が宮崎上空から大牟田までを飛行し、各地の基地を撮影した記録が残っている。 -
1945.4.8
昭和20年4月8日
隧道地区の建設とB-29の飛来
1945年3月に爆撃にも耐えうる地下軍事施設を建設するため、第521設営隊が編成され地下に多くの工場や倉庫の建設が進められていた。主な施設として、兵舎・弾薬庫・魚雷庫・作戦室・酸素発生工場など。
また、同時期に硫黄島の戦いに負けアメリカ軍に占領されると、大型爆撃機B-29「スーパーフォートレス」が飛来する回数が増え、1945年4月8日には出水飛行場を目標とした空襲も行われた。 -
1945.5.14
昭和20年5月14日
人吉海軍航空基地最後の空襲
アメリカ海軍インディペンデンス級航空母艦「サン・ジャシント」の艦載機16機が人吉海軍航空基地に飛来。爆弾投下や機銃掃射を行い多数の建物に被害があったが幸い死者は出ず、応戦した機銃員1人が負傷。その他家屋や家畜に被害が出た。
この頃、「赤とんぼ」の愛称で親しまれた九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになった。 -
1945.6.1
昭和20年6月1日
本土決戦に向けて
この日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上戦部隊として変更される。
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1945.7.10
昭和20年7月10日
人吉海軍航空隊の解隊
人吉海軍航空隊は解隊され、人吉航空基地施設と改称。九州航空隊人吉派遣隊が駐屯する人吉海軍警備隊となる。
基地は「中型練習機・軽爆撃機ヲ以テ作戦スル施設」と指定され、地下施設や工場を利用した兵站基地・作戦基地として位置付けられることになる。 -
1945.8.15
昭和20年8月15日
第二次世界大戦の終戦
1945年(昭和20年)8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔書」の玉音放送がラジオで流され、第二次世界大戦の終戦が国民に知らされる。
終戦時、基地には九三式中間練習機96機や雷電1機、零式艦上戦闘機2機、九六式艦上戦闘機19機など多くの機体が残っていた。
事前学習について
教育旅行向けプランの「飛行場地区フィールドワーク」をお申込みいただくと、事前学習として出前講座を行っております。(任意)
ミュージアムより半径約100キロ圏内であればスタッフ派遣の上での出前講座の開催が可能です。遠方である場合も、スタッフ派遣に関する実費をお支払いいただける場合は、都合がつく限りお伺いいたします。また、通信授業に対応できる設備をお持ちの学校様であればリモートでの開催も可能です。詳しくはご相談ください。
これまでにご利用いただいた学校様からは「わかりやすかった」との評価を多くいただいております。近現代の歴史に不慣れな方でもできるだけ理解できるよう講座を開催いたしますので、ぜひこの機会にご利用くださいませ。
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